塩で栄えたザルツブルクは領主司教に牛耳られていた
今回は音楽の街といわれるザルツブルクで得た中世・近世ヨーロッパの衣装を紹介したい。
とその前に、歴史話を少し。
ザルツブルクは中世の時代、領主司教領というカトリック教会のエライさんがトップとして君臨する独立した国であった。ホーエンザルツブルク城やレジデンツ(宮殿)は、彼ら領主司教様の住まいで、かなりの贅沢をしていたようだ。司教=地位の高い聖職者が、神聖ローマ帝国が崩壊するまで代々支配しており、このザルツブルクという街を築いた。
何しろ、塩の権利を握り、昔からローマと北欧、東西のヨーロッパを結ぶ交通の要衝であったから、かなり恵まれた国といえる。
というわけで、せっかくだから時系列の前に、金持ちオーラ全開の大司教から始めたい。地位、衣装にも着目してほしい。
赤い祭服をまとうザルツブルク大司教
例えば、この人。レオンハルト・フォン・コイチャッハ。16世紀ころ、彼がホーエンザルツブルク城を強固にして大々的に増改築し、今の形にした大司教。あまり上手い絵ではないが、人柄がにじみ出ている。
それにしても、赤い人たちがズラリと並ぶ。どうして赤いのか?
カトリック教会における聖職者で緋色(赤)は、教皇の最高顧問である枢機卿(すうききょう)を連想する色のはず。なかには枢機卿もいたにせよ、大司教たちも含めて皆赤をまとっているのはなぜなのかと思い、ザルツブルクミュージアムに質問をすると、親切にも詳しい回答をいただいた。
質問1
なぜ大司教たちは皆赤い服をまとっているのですか?
回答1
大司教の公式服の赤い色は、ローマ教皇の個人的な代表者としての地位に由来し、いわゆる「ローマ教皇の特使」を意味します。 ザルツブルク大司教は一種の「生まれながらのローマ教皇特使 “born legates”」であったため、個人ではなく職権で指名されました。
したがって、彼らはこの特別な種類の紫、「ローマ教皇特使の紫 “legate purple” 」を着ることが許可されていました。
(翻訳:天野川)質問2
つまり、正しくは、赤ではなく、紫なのですね?
私はてっきり、中世では大司教たちが緋色を身に着け、枢機卿と同じ祭服を着ることを許されているのだと思っていました。
枢機卿の祭服とは違うのでしょうか?回答2
色を正確に定義すると、赤紫”purple red”です。
ザルツブルク大司教は、1179年頃から使徒会の議員(ラテン語:apostolicae sedis legatus)としての地位があったので、紫色を着ることを許されました。
枢機卿の紫”cardinal purple”はより一般的ですが、ザルツブルク大司教の紫よりも後年の13世紀に制定されています。
枢機卿の服とローマ教皇特使の服は非常に似ているものの、少しだけ違いがあります。すなわち、枢機卿の帽子(ラテン語:galerus)です。今日、ザルツブルク大司教のほかに、プラハ、グニェズノGniezno、リヨン、ランス、ピサの大司教もローマ教皇特使であるので、同じ紫を着ることができます。
(翻訳:天野川)
あれは「紫」と表現しているが、赤なのだ。
教皇の特使は、外国において教皇の個人的な代表者であり、 ザルツブルク大司教はカトリック信仰の問題と教会の問題の解決について権限を与えられていた。だから、特別な祭服を許されていたのだ。
下は、モーツアルトの天敵と言われているコロレド伯。ナポレオンによって神聖ローマ帝国の解体とともに領主司教制度も廃止されたときの大司教。
先ほども触れたが、1800年ザルツブルク大司教領はフランス軍に占領されており、ザルツブルク大司教であるコロレド伯はウィーンに逃亡した。 彼は1803年のザルツブルク世俗化により地位を失っている節目の大司教。
『中世ヨーロッパの服装』という専門書籍も紹介しておく。
また、漫画家先生がドレス好きで、ドレス図鑑なる本を出している。説明もしっかりしているし、イラストの参考になるのでこちらも紹介する。
16-17世紀の貴族のエリマキトカゲ肖像画
時系列の紹介に戻る。
こんなエリマキトカゲみたいな貴族の衣装を見ると、有名なイギリスのヘンリー8世やその娘エリザベス1世の肖像画を思い浮かべる人も多いだろう。まさにそのころの肖像画である。
Magdalena Fieger zu Hischberg(1592)エリマキトカゲみたいな襟は、襞襟(ひだえり)という。テューダー王朝の服装が西ヨーロッパのファッションに大きな影響を与え、16世紀半ばから17世紀前半のヨーロッパ諸国において、王侯貴族や富裕な市民の間で流行した。
それにしても、いろいろな襞襟があるものだ。レースの平たいものや、パイプみたいなボリューミーなものまで。
なんだか、防寒にも良さそうだ…なんて思っていたら、冬服らしきものとのセットが多い気がする。そういうことか。
よく見ると、襟だけでなく、袖口もレーシーな飾りがついている。
ここらへんは襞襟をよく着る寒い地域ということだ。
16-17世紀の貴族の絵画:襞襟以外
上はガーデンテラスの男女。
下はリュート、ヴァイオリン、ハープを奏でる音楽仲間。ヴィオラとタンバリンが置かれている。
ここからは様子がわかる絵画。
馬に乗った兵士とたいまつを運ぶメッセンジャーのシーン。17世紀の最初の数十年間、スペイン支配との闘いにおいて、兵士は町の日常生活の一部だった。
上はルネサンスふうの場所で音楽を奏でる人たちとあるが、楽器が見当たらない。
16-17世紀の庶民
ザルツブルクとは限らないが、当時の庶民の様子、習俗などもわかる絵があるので紹介する。
喫煙シーンの絵。
オランダの17世紀初頭から増加した習慣だが、当時悪とみなされ、酩酊することと同罪だと思われていた。というのも、アメリカ大陸のインディアンの習慣で、彼らが「奴隷」であったことから、ヨーロッパのキリスト教徒からそうみなされていたのだ。
酒とタバコのイメージは、昔からあまりよろしくないようだ。
下はもう少しお上品な喫煙。のんびり粘土パイプをくゆらせている若い男性。彼のファッショナブルな衣装と帽子は、ダンディな印象を与える。
キャンドルに照らされてカードゲームに興じる人たち。
下はケガの処置だろうか。
上は、糸を紡いでいる商売人の女性。
下は、アムステルダムの市役所
19世紀の貴族
冒頭で説明したように、1800年にフランスによって神聖ローマ帝国は崩壊し、その余波でザルツブルクも大司教が為政者ではなくなる。
フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)は最後の神聖ローマ皇帝。1803年に補償としてザルツブルク選帝侯領を獲得した。
下はオーストリア皇帝フランツ1世の4番目の妻である皇后カロリーネ・アウグステの肖像。初代バイエルン王マクシミリアン1世の娘でザルツブルクにも関係がある。
子どもがなく、政治において役割を果たさなかったものの、慈善活動に専念した人だった。彼女をミュンヘンのレジデンツで見たのを覚えている。ひと際美しく、気品をもって描かれていたのでピンときた。
結婚前の若かりし彼女を見てみる。↓はミュンヘンのレジデンツで撮影したもので、かなりゴージャス。
初婚はビュルテンベルク王太子。結婚数年で離婚し、ハプスブルク家のフランツ1世と再婚したのだ。フランツ1世は、ちょうどフランス革命ころの人で、ナポレオン戦争で負けて最後の神聖ローマ皇帝となって帝国を解体し、代わって初代オーストリア皇帝になっている。皇室の財政難から、質素な結婚式を挙げた後、慈善活動に積極的であったため、夫婦ともに国民からの高い人気と尊敬を受けていた。
彼女には子がいない。子ができないからか、最初の結婚で見切りをつけられたのかもしれなく、事実別れた夫は再婚を繰り返して世継ぎをなした。
2番目の夫はすでに子だくさんだったので、カロリーネは子をなす必要もなかったために再婚したのかもしれない。どちらにせよ子はできなかった。夫の死後は主にザルツブルクで過ごしたので、この肖像画があるのだろう。
若い時も年を重ねても、ゴージャスでもシックな装いも美しい。カツラをかぶっておらず、そういうところも現代的な我々の趣味趣向とあうのかもしれない。
↓美貌で知られるシシイの夫、フランツ・ヨーゼフ1世。彼の母親はカロリーネの異母妹なので、甥の関係。美しい家系である。事実、バイエルン家はその評判が高い。
19世紀のお金持ちの肖像画
王侯貴族という感じではない人たち。ただし、お金持ちだから肖像画を描かせることができたのは言うまでもない。
オマケ:現代売られている民族衣装
ザルツブルクが最もにぎわう夏の音楽祭時期に訪れたせいか、老いも若きも民族衣装を着ている人をちらほら見かけた。
街のショップのショーケースではこんな素敵な民族衣装が飾られていたので紹介する。
ザルツブルクでは、民族衣装を着た庶民を描く絵画をみかけなかった。
貴族やお金持ちの姿を描いたのが中世・近世という時代のようだ。
続きはどんどん更新していく予定。下記を参照のこと。
>>ファッション・ギャラリー:中世・近世ヨーロッパの衣装シリーズ