ローテンブルク
ドイツ,  城と中世という時代に生きる人々

城郭都市ローテンブルクの歴史

「ヨーロッパ100名城」に選ばれたローテンブルク

ロマンティック街道で人気の街ローテンブルクは、正しくは「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー」という。
意外なことに、この街は「ヨーロッパ100名城」のなかに「城郭都市ローテンブルク」として入っている。訪れた人は「城なんかあったか?」と驚いてしまう。実際、石組の防御壁がぐるりと旧市街を囲んでいるものの、どこにも城など見当たらない。「城」ではなく、「城郭」というわけだが、一体どういうことなのか。早速城のネタを探してみよう。

ローテンブルク レーダー門
レーダー門
プレーンライン
プレーンライン

ここは歩いて回れるほどの範囲にこれでもかというほど可愛らしい街並みで溢れている。

城の歴史を紐解くと、10世紀ころ、現在のブルク公園の場所に東フランケンの貴族コムブルク=ローテンブルク伯が城を建てたのがこの街の始まりである。のちに城はホーエンシュタウフェン家に譲渡され、12世紀半ばに帝国城塞を築いたのだが、皇帝コンラート3世がここに宮廷を置いたものの家は断絶し、1356年の地震により城塞は崩壊。現在城は残っていない。

ブルク公園
ブルク公園

一代限りのほんの数年、皇帝の城があったその場所は、現在ブルク公園になっている。それらしきものは城=ブルクの名前がついた公園名とブルク門くらいで、再建されたものはブラジウス礼拝堂だけなのだという。ブルク公園は城跡でしかない。

この都市の繁栄期はそのあとのことだから、素直に城下町とは言い難く、なかなか街の成長イメージをつかみづらいのは確かだ。

1170年に市になり、このころから要塞化が始まったと言われている。13世紀になると塔や市壁が造られ、商業の街として栄えていく。1274年、皇帝ルドルフ・フォン・ハプスブルクにより帝国自由都市(帝国都市とも言う)に指定されると、さらに市壁を拡大し、現在見るような旧市街を囲む「環状市壁」が完成する。

なお、ガイドブックでは「城壁」と記載されているが、城とは無関係のようだからここでは「市壁」と呼ぶことにする。あえて言うならば、外敵から守るための“城塞のような役割をしていた壁”ということができると思う。

ここへ行ったことのある人にはうなずいてもらえると思うが、ローテンブルクのように周りに何にもないド田舎にポツンとある都市が、どうしてこれほどまでの人気を獲得できたのかずっと不思議だった。調べる前の私の予想はこうだ……あまりにド田舎すぎて第二次大戦で連合軍の爆撃対象から免れ、おかげで中世の趣を留めているかわいらしい街として、戦後観光地として成功したのではないか、と。

フランケン地方の田舎

だが、私の予想は見事に外れている。

正解は、ドイツ騎士団が街の主教会である聖ヤコブ教会に十字軍遠征で得た聖遺物を置いたことから、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地として人気が出て、神聖ローマ帝国内上位20都市の中に入るほどだったということ。15世紀ころ最も繁栄し、小都市でありながら市壁内外にたくさんの人が居住し、フランケン地方でニュルンベルクに次ぐ人口を誇り、帝国最大の都市のひとつになったのである。

「聖血の祭壇」(木彫り)
聖ヤコブ教会 リーメンシュナイダーの傑作「聖血の祭壇」(木彫り)

その後、いくつもの戦争により衰退し、1802年にナポレオンによる帝国解体が決まると500年続いた独立は終わり、意に反してローテンブルクはバイエルン王国に編入されるのである。

「帝国自由都市」ローテンブルク

何度も出てきた名称「帝国自由都市」について紹介したい。
当初歴代皇帝(ドイツ王)の指示によりつくられた都市を「帝国都市」と呼んだ。後に中世都市が発展して力をつけてくると、そこを治める地方領主の統治下に置かれることを望まない都市が出てきて、領主よりも皇帝の統治を選んだ都市は貢納などの義務と引き替えに特許状を獲得して事実上領主から独立した。これらも「帝国都市」と称したが、さらに時代が進むと、義務も形骸化し、そういった都市を「帝国自由都市」と称した。
つまり、帝国自由都市とは、地方領主や司教の統制下でなく、皇帝直属の地位に置かれ、一定範囲における自治を行使した都市を指す。

ローテンブルクのように、城がなくても市壁という防衛機能のある砦で守られていれば経済的繁栄は可能だったし、都市においては領主が必ず必要ということもなく、むしろ商業の邪魔だと理解されていたことがよくわかる。ローテンブルクのような小さな都市であっても、帝国自由都市としてその独立性を認められていたことがわかるし、そのぶん富の蓄積があり、農奴たちの逃げ込み場所にもなるので、逃げられた側の領主としては面白くなかったに違いない。自治権と主導権争いは、富のあるところで常に起こるものなのだ。

こうしてローテンブルクという都市を見てみると、帝都の歴史があるということから始まり、商業が活発で市場をいくつも開いていたとか、帝国自由都市だったとか、聖遺物が置かれて巡礼者を多く惹きつけたなど、10世紀ころから常に何かを“持っている”都市だったと言えよう。

そして時代は飛んで、第二次大戦後に話を移す。
実はローテンブルクも第二次世界大戦時のアメリカ軍による爆撃で建造物の40%が破壊されたのだが、戦後、全世界から寄付が集まって、かつての姿に再建されている。寄付者の名前は市壁の通路内側に刻まれており、日本人名もちらほら見受けられる。私たちはこの街の魅力が時代を超えて世界中の人に認められていることを壁にズラリと並んだ復元協力者名プレートから知るのである。

ここの観光の売りのひとつは、42もの塔で整備された環状市壁に登って通り抜けできることだ。この街を破壊したアメリカからも多額の再建資金援助があったことを知って歩く人はほとんどいないだろうが、こんな小さな場所に未来志向の友好の証があることに何かを想わずにはいられない。

市壁
市壁