中世・近世ヨーロッパの衣装【4】ニンフェンブルク宮殿★前半

ドイツ

ニンフェンブルク宮殿

ニンフェンブルク宮殿は、バイエルン地方の有力君主ヴィッテルスバッハ家の夏の離宮で、ニンフ(妖精)のブルク(城)という名の通り、優雅で典型的な宮殿の様式を整えている。バイエルン公国時代の17世紀後半に建設され始め、18世紀には大々的な拡張が続き、今の形になった。
前庭には噴水が上がるだけでなく、入り口の近くまで船が乗り入れられる運河が通っており、ミュンヘン北部の水路の一部を形成していた。裏には広大な庭園が広がっていて、狩りも行われていた。当然宮殿は広くて豪華。ドイツ貴族の生活が垣間見れる歴史建造物となっている。あのミュンヘンのレジデンツよりも観光で訪れる人が多いというから、かなりの魅力があるのだろう。

ニンフェンブルク宮殿

宮殿およびニンフェンブルク宮殿についての詳細はこちら
>>【西洋の宮殿】城から宮殿に住み替える貴族

そういうわけで、調度品もさることながら、バイエルン公国およびバイエルン王国を彩った貴族の肖像画が数多く飾られており、しかも宮廷画家の腕がよく、豪華なファッションに身を包んだ美男美女だらけの宮殿でもある。17世紀以降の貴族の服装を見たい方にはぜひともオススメしたい。

部屋としては、祝祭大ホールというハレの行事を行う部屋がひとつの見所。

シュタイネルネ・ザール(祝祭大ホール)

シュタイネルネ・ザール(祝祭大ホール)

バイエルン公国?バイエルン王国?選帝侯って何よ?

公国、王国、帝国とか、選帝侯やら王とか皇帝といろいろ出てきてわけがわからない人のために、少し歴史話をする。

ヴィッテルスバッハ家は12世紀からバイエルン地方を治める君主=諸侯の家系であった。中世のドイツ地方は神聖ローマ帝国という名のドイツ諸侯による政治連合体であったのだが、その有力諸侯のなかから皇帝を1人決めて「神聖ローマ皇帝」を名乗っていた。バイエルン公国の君主は大公と言っていたが、1648年に皇帝を選挙で選べる権利を獲得し、バイエルン選帝侯を名乗った。神聖ローマ帝国内でも、有力な諸侯に格上げになったのだ。

時代は下がって、1806年に神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体されると、帝国は再編成が起こり、同年自動的にバイエルン公国が終わってバイエルン王国が始まっているのだ。だから、このときから選帝侯というものはなくなっているので、君主を「王」と呼ぶ。なお、バイエルンでは第一次世界大戦終結までヴィッテルスバッハ家が統治した。ドイツ革命により王政が廃止となったためだ。

公国時代の君主を「選帝侯」といい、英語解説では “Elector” と記すので、選挙人と勘違いする人もいるかもしれない。
「選帝侯マックス・エマニュエル」と来たら、バイエルン公国時代の君主だなと思えばいいし、バイエルン王国のルートヴィッヒ1世の話題が出たら、神聖ローマ帝国が終わったあとの話ね……ということだ。
なお、〇〇2世とか言うのも要注意で、同一人物かと思っていたら、別の時代の別人ということもある。王朝によって何番目のルートヴィッヒなのか違うので、名前だけでで判別すると間違うことになる。

ニンフェンブルク宮殿の建設に関わったふたり

ニンフェンブルク宮殿の建設を命じた2人から話を始めようと思う。
17世紀の人、バイエルン選帝侯フェルディナント・マリアとヘンリエッテ・アーデルハイト・フォン・ザヴォイエンだ。
フェルディナント・マリアは三十年戦争で荒廃したバイエルンの復興に取り組み、農業・産業の奨励、教会・修道院の修復や軍の近代化に努めた。もうひとつ大きな仕事は、1664年に始まったニンフェンブルク宮殿の建設ということだろう。

Kurfürstin Henriette Adelaide (1636-1676)

Ferdinand Maria(1636年 – 1679年)とHenriette Adelaide (1636-1676)

イタリア人建築家アゴスティーノ・バレッリに設計を依頼しているのだが、妻ヘンリエッテがトリノのサヴォイア家の出身だからで、多くのイタリア人芸術家がミュンヘンに招かれている。また、ヘンリエッテは初めてバイエルンにイタリア・オペラを紹介した人物であり、これは今日のバイエルン国立歌劇場の起源となっているから、バイエルンの芸術に深くかかわった女性といってよい。政治面ではバイエルンの外交をフランス寄りに軌道修正して政治に関与しているから、夫に対してもなかなかの影響力があったということだ。

2人は世継ぎのマクシミリアン2世エマヌエル、マリア・アンナ(フランスのルイ14世の息子王太子ルイに嫁ぐ)ら7子をもうけている。

マリア・アンナ(1660年 - 1690年)とマクシミリアン2世エマヌエル((1662年 - 1726年)

マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)とマリア・アンナ(1660年 – 1690年)

美人画ギャラリー

この宮殿の一番の目玉は、南の建物にある小さなダイニングルーム「美人画ギャラリー」だ。
36人の美人たちの肖像画が一堂に会するその部屋に入ると、私は「わぁぁ~~」と美しすぎる女性たちの顔を次々に見て呆けた顔になった。あまりにマヌケづらだったので、スタッフの男性と目が合って、彼に笑われた。どの女性がナンバーワンなのか、何度も行ったり来たりして吟味。かなりの目の保養になる。

美人画ギャラリー

美人画ギャラリー

(._.)どれどれ。私の好みは……と真剣に拝む。

左上:Maximiliane Borzaga。ミュンヘンのイタリア系の美人で、イタリアのロヴェレート産の塩と質屋を商いとした家の娘。右上:Archduchess Auguste Ferdinande of Austria。王の義理の娘で、三男ルートポルドと結婚。左下:Caroline, Princess von Oettingen-Wallerstein。右下:ルートヴィッヒ1世の娘 Alexandra Amalie of Bavaria (1826–1875)

右上の赤い服の女性:ルートヴィッヒ1世の異母妹Sophie, Archduchess of Austria(1832)。美少女で有名だった。左下:Nanette Kaulla(1829)はユダヤ人裁判所の代理人の娘。右下:Katharina Botsaris。ジャニーナのギリシャの美人でギリシャの伝統的な衣装を着ている。

左上:Wilhelmine Sulzer。王立裁判所劇場の舞台女優。右上:Emily Milbanke。左下:Marianna Marchesa Florenzi(1831)。右下:Regina Daxenberger(1829)は銅細工師の娘。

左上:Rosalie Julie von Bonar。右上:Amalie Adlerberg(1827)。右下:Isabella von Trauffkirchen-Engelberg。左下:Auguste Hilber(1827)はバイエルンの王室会計士の娘。

左上:Mathilde von Jordan。右上:Elise Listは経済学者の娘。左下:Charlotte von Hagn。右下:Irene von Pallavicini。

左上:。Auguste Strobl。右上:Josepha Conti。家政婦の娘で、15歳で45歳の画家と結婚してレジデンツの傍に住んでいたところ、王が見かけて絵のモデルにした。右下:Caroline von Holnstein。左下:Caroline Liziusは1842年に「ミュンヘンで最も美しい女性」と評されていた。

左:恋多きイギリス貴婦人ジェーン・ディグビー。ルートヴィッヒ1世の愛妾で、その後も男を転々とするが、相手は皆貴族か金持ち。右:Amalie Schintling。オリエンタルスタイルのケープを着ている。結婚式の前に結核で亡くなる。

右:Antonie Wallinger。左:Jane Erskineは英国特使の娘。

左:Theresa Spence。レスボス島出身のギリシャの叙情詩人サッポーとして描かれた彼女は、伝統的なギリシャのローブと月桂樹の冠を身に着け、琴を持っている。右:Helene Sedlmayr。

左:Friederike, Baroness von Gumppenbergはミュンヘン生まれの貴婦人で、マリー皇太子の宮廷女性だった。右:Marie of Prussia Queen of Bavaria

Caroline Grafin Holnstein

Caroline Grafin Holnstein(1834)

↑この人は美しい。ドイツの貴婦人で、経済的・政治的理由で伯爵と結婚したが、結婚生活はつまらなかったよう。結婚と恋愛は別ということで、合法的な子どもと非合法的な子どもがいた。

CORNELIA FREIFR. v. KÜNSBERG geb.VETTERLEIN.

Cornelia Vetterlein(1828)

↑私はこのコーネリア嬢がナンバーワンと思っている。品があって美しい。
彼女はバイエルン州議会議員の娘で、男爵と結婚。ほかの絵が背景らしきものがほとんどないのとは違って城が描かれ、これぞドイツという恒常性と伝統的な女性として描かれているとか。南ドイツでは金髪ではなく、栗色の髪が多く、性格も金髪ゲルマンとは違う。確かに、この栗色の髪といい、私がイメージするドイツ美女そのものだ。

↓カルロッタ嬢は男爵令嬢で、年老いた寡夫のルートヴィッヒ1世に見そめられるのだが、カルロッタを賞賛して250以上の詩を彼女に捧げて結婚を申し込むものの、彼女はそれを断り、ほかの男性と結婚する。

Carlotta Freiin von Breidbach-Bürresheim

Carlotta Freiin von Breidbach-Bürresheim(1861)

この絵とその下のアンナ嬢の2枚だけはフリードリッヒ・ダークの作品。

Anna von Greiner (1861)。大工の娘でミュンヘンの国立劇場の女優。

さて、この美人画ギャラリーはいかにも女好きという雰囲気のルートヴィッヒ1世(1786- 1868)が彼の宮廷画家ジョセフ・カール・シュタイラー(1781-1858)に描かせたものがほとんど。シュタイラー没後にギャラリーに2枚加え、計36枚の計算。

この王の肖像画もシュタイラーの作で、この絵に関してはレジデンツにあるものだが、紹介ついでに載せておく。

ルートヴィッヒ1世

ルートヴィッヒ1世(1826)

このギャラリーはあらゆる社会階級の最も美しい女性36人の肖像画コレクションからなっており、ルートヴィヒの関係に加えて、ブリトン人、ギリシャ人、スコットランド人、イスラエル人が含まれる。ルートヴィヒ1世の娘アレクサンドラ王女と同様に、義理の娘も描かれているので、36人の愛人ということではない。

いろいろ読んでいると、宮殿の訪問者として、また出入りの関係で美女たちと出会ったりしているようだが、「絵のモデルになってくれ」と口説いている姿が透けて見える。それはヨコシマな願望から続きを描いているときもあれば、その子の父親に許可をとるなど、純然たる芸術の愛好者としての依頼だったりするから面白い。絵画を貴族のお屋敷や宮殿で見せびらかすというのは、美術館の前身であり、美しいものを保護し愛でるパトロンとして後の文化と観光に寄与するわけだから、王は結果的に良いことをなさっていると言わざるを得ない。特に、ヴィッテルスバッハ家は芸術を愛好した家系として有名であるから、美女を放っておけないのはその審美眼のなせるわざなのだ。

最も有名な作品は、以下の4人なのだという(既出含む)。

↓靴職人の娘ヘレネ・セドルマイヤー。庶民ということね。「美しいミュンヘン娘」と呼ばれたとか。

Helene Sedlmayr

Helene Sedlmayr

↓女優のシャルロット・フォン・ハグン。ミュンヘン、ベルリン、サンクトペテルブルクの観客が彼女を称賛しており、フランツ・リストの愛人でもあった。実際に、美人で穏やかでウイットに富んだ人気者だった。

Charlotte von Hagn

Charlotte von Hagn

↓マリアンナ・マルケサ・フロレンツィ。
イタリアの伯爵令嬢。哲学を愛し、文化的なサロンのホステスとして活躍した才媛。彼女は40年にわたってルートヴィヒ1世の恋人であり、親しい友人でもあった。 王は文化・芸術の理解者であり、パトロンでもあったから、共鳴するところも多かったのではないかと推察する。政治問題でさえ常に彼女のアドバイスを求めていたことが、二人の手紙3,000通(うち彼の返信1,500通)によってわかっている。なお、彼女も夫がいた……。やはり結婚と恋愛は別物なのだ。

Marianna Marquesa Florenzi

Marianna Marquesa Florenzi(1831)

最後は王の愛人ローラ・モンテス。これがまた凄い武勇伝を持っている。

ルートヴィッヒ1世の愛人ローラ・モンテス

さて、美人画ギャラリーの最後の一枚は、ルートヴィヒ1世が退位する原因となった踊り子ローラ・モンテスの絵。あまりにも凄すぎて、別にタイトルを立てて紹介する。

Lola Montez

Lola Montez(1847)

ルートヴィッヒ1世の好みはイタリアやギリシャ系の小麦色の肌をした女性とか。なるほど、彼女はアイルランド生まれだが、黒髪のジプシーっぽいローラ・モンテスを選ぶわけだ。ルードヴィヒ1世が60歳、ローラ25歳の時のこと。

王の愛人になった彼女は政治に介入しただけでなく、年金と伯爵夫人の称号という特別待遇を受けたことから、これに反発した民衆が暴動を起こす事態となった。これに屈したルートヴィヒ1世は彼女を国外追放し、翌1848年に自身も退位した。

ローラ・モンテスの話が面白いので出会いの前と後を載せておく。
ローラ出身はアイルランド生まれのイギリス育ちで、名前は芸名。もともと著名で資産家の男たちや富裕な資産家らの愛人となることで、当時としては破格な収入を得ていた。愛人の一人がフランツ・リスト……って、あの著名な音楽家のリストだが、彼の紹介でジョルジュ・サンドのサロンに出入りし、そのころ知り合ったパトロンがローラを巡って決闘して死んだためにパリにいられなくなって、バイエルン王国のミュンヘンに旅立つことになる。ここで知り合ったのがルートヴィッヒ1世というわけだ。

旅行で王様に出会えるというのも、彼女が特権階級の世界に出入りした女性だからであろう。私もミュンヘンに行ったが、私が出入りするようなところにロイヤルな人々がいたためしがない。住む世界が違うのだ。

彼女は王の愛人であるばかりでなく、政治介入という面白いことをして国外追放になったのだが、のちにルートヴィッヒ1世を捨ててイギリスへ戻っている。そのとき別の男と結婚しようとしたのだが、最初の結婚で離婚していなかったことが知られて重婚罪で告発され、国外へ逃亡。いろいろな国へ渡って、いろいろな男をわたり歩く。お金がなくなると踊り子時代を思い出して下着を着けずにスカートをまくり上げるダンスを披露してなんとか生計を立てていたらしい。やがて落ちぶれて、病気になって死ぬという結末。
一言では終わらない、スキャンダラスな人生。最期にお世話になったのは司教だったというから、神を信じてあの世に行ったことだろう。

36人のうち2人ほど載せていない。悪しからず。下記Wikipediaに美人画ギャラリーのリストがある。

External Links>>Wikipedia>>Gallery of Beauties

宮廷画家の仕事ぶり

「ホントにこんな絶世の美女が36人もいたのかよ?」と首をひねって部屋を何往復もした私。庶民から貴族までこんなにも目の覚めるような美女36人をそろえるとは、「ルートヴィッヒ1世には凄い運とパッションがあったのだな」と思って一人ひとり見入っていた。説明書を見ると「ルートヴィッヒ1世が理想とする女性36人……」とあり、「どういう意味?」とこれまた首をひねった。

1820年宮廷画家に任命されたジョセフ・カール・シュタイラーが、2枚を除く34枚の絵を描いている。で、調べるとこの男、凄い腕を持っていて、実物をはるかに超えた美貌の女性として絵を仕上げることのできる類まれな才能を発揮していたのだった。
例えばこの彼女、マリー・フォン・プロイセン (1825-1889)。1842年に当時バイエルン王太子だった後のマクシミリアン2世と結婚。あのルートヴィッヒ2世の母である。

Marie of Prussia Queen of Bavaria

Marie of Prussia Queen of Bavaria

絵ではどう見ても美人だが、私は彼女の使用前写真を見てしまった……。ショックだった。つまり、実物は別モノであるということだ。「少し美化して描いた」との説明があったが、もはや別人状態。彼は宮廷画家としての忖度や理想を絵に叩きつける才能もしっかり持ち合わせていた。
使用前写真を見たい方は、下記「Joseph Karl Stieler」をクリックしてほしい。夢を壊したくない方は見なくてよい。天野川は「ホントかよ」と思った。美人画とは、画家の腕が良いと、いかようにも創れてしまうということを彼が証明している。

このシュタイラーは、ベートーヴェンの肖像画も描いている。こちらのほうが有名かもしれない。理想を描ける腕があるとは、まことに羨ましい。

External Links>>Wikipedia>>Joseph Karl Stieler

マックス・エマニュエル選帝侯の素晴らしき美人画ギャラリー

さて、もうひとつ美人画ギャラリーがある。さきほどのものよりもかなり規模が小さい。”Max Emanuel’s Great Gallery of Beauties” 、「マックス・エマニュエル選帝侯の素晴らしき美人画ギャラリー」と訳すが、そこには1715年頃にピエール・ゴベールが描いたルイ14世の宮廷にいた5人の女性の肖像画がある。

↓マックス・エマニュエル選帝侯については、ニンフェンブルク宮殿★後半を参照のこと。
フランスとの縁が結構ある人で、スペイン継承戦争でフランス側について従軍し、大敗を喫して、姉のつてを頼ってフランスに一時亡命しているのだ。その関係からか、この美人画を所有しているのかもしれない。両親もフランス寄りの政治をおこなっていたことだし。

マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)

マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)

さきほどの美人画ギャラリーの時代よりも1世紀ほど早く、皆カツラをかぶっているようだ。彼女たちも美しいのだが、画風が異なり、先ほどのように見とれてしまうほどでもない。

>>ニンフェンブルク宮殿★後半

なお、中世・近世ヨーロッパの衣装シリーズはこちら>>ファッション・ギャラリー

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