Maria Amalie von Österreich
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中世・近世ヨーロッパの衣装【5】ニンフェンブルク宮殿★後半

ニンフェンブルク宮殿★前半では、美人画を主に取り上げた。あちらはさまざまな社会階級の美人たちが並んでいたが、服装は豪華であったので、庶民であったとしても絵のモデルにはそれにピッタリの服もコーディネートされたうえで臨んだことだろう。

今回は肖像画にこだわらないで、近世・近代の貴族たちが蒐集したものを紹介していくことにしよう。

ニンフェンブルク宮殿には、宮殿の装飾品としての絵画、壁紙やフレスコ画、家具などの調度品、御用馬車、フュギリン(磁器の人形)などが豊富で、さまざまな職業の庶民も芸術のモティーフとして登場する。この宮殿自体が博物館そのものであり、馬車博物館、陶磁器博物館、庭園などいくつものカテゴリに分かれていて、見ごたえがある。

貴族の政略結婚の現実:マクシミリアン2世エマヌエル夫妻

ニンフェンブルク宮殿建造を指示したバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアとヘンリエッテ・アーデルハイト・フォン・ザヴォイエンの話をニンフェンブルク宮殿★前半でした。
その子どものひとり、マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)の肖像画を再度載せる。彼は両親から引き継いだニンフェンブルク宮殿の拡張とハプスブルク家との関係修復に取り組んだ人でもある。

マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)
マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)

大人になったバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル(マックス・エマニュエル)はこちら。選帝侯の住居エリアのひとつ「控えの部屋」に2度目の妃テレーゼと並んで肖像画が飾られている。

マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)
マクシミリアン2世エマヌエル(1662年 – 1726年)

二人の間には10子いて、選帝侯であり神聖ローマ皇帝のカール7世をはじめ、司教、神聖ローマ帝国軍将軍、ドイツ騎士団総長、ケルン大司教、枢機卿と、まぁ凄い。見てわかるように、長子は王位や帝位に就き、その下は聖職者というパターンが多い。
二人目の妻はポーランド貴族。

Therese Kunigunde von Polen
Therese Kunigunde von Polen。バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの2度目の妃
The South Apartment, Bedroom
The South Apartment, Bedroom :マクシミリアン2世エマヌエル夫妻の肖像画

こうしてみると、「最初の妻はどこに行った?」と聞きたくなる。探すといた。馬車博物館にひっそりと。最初の妻もそのお籠とともに紹介する。

Maria Antonia von Österreich (1669-1692)
Maria Antonia von Österreich (1669-1692)

この女性、マリア・アントニア・フォン・エスターライヒは由緒正しき血統で、生まれはウィーンの、父親は神聖ローマ皇帝という絵に描いたハプスブルク家の人。そして、23歳で死んでしまうのだが、それもいかにもハプスブルク家の血筋というものだ。

ハプスブルク家は近親結婚が多く、例えば実の叔父とか、従弟/従妹同士というのが立て続けによくあり、血が濃すぎて早死に、奇形の類に見舞われることが多かったという。彼女の母親も早死に、兄弟は夭逝、本人は成人して3人の子を成すも、いずれも夭逝して世継ぎが育たなかった。もし第3子のスペイン継承者であるヨーゼフ・フェルディナントが6歳で死ななければ、スペイン継承戦争は起きなかったのだが……。

話はそれるが、「ハプスブルクの顎」という呪いのようなものがあるそうだ。一族の顔の特徴は、やたら面長で顎が長く下唇が突出……下顎前突症というそうだが、上顎が育たず、下顎がしゃくれている。顔の変形だけでなく、早死にが多く、結局スペインのハプスブルク家は断絶することになる。
で、マリアの肖像画を見ると、それに近い顔ということがわかる。宮廷画家が美化して描いたであろうが、それでさえもコレなのか。

マックス・エマニュエルは最初の妻の死後にポーランド人と再婚して子づくりに励んだ。前妻とは打って変わって、10人の子どもに恵まれ、成人した子らは政治の中枢に散っていった。その話とはあまりにも落差がありすぎる。

↓彼女のお籠の傍に(馬車博物館)この絵があった。誰だかわからないが、親族だろうか。

選帝侯カール・アルブレヒト夫妻

↓選帝侯カール・アルブレヒト (1726-1745)がライオンを従えているが、架空の添え物と思われる。額の王冠が輝かしい。
カール・アルブレヒトはルートヴィヒ4世以来4世紀ぶりの即位となったヴィッテルスバッハ家の皇帝であり、神聖ローマ皇帝としてはプファルツ系のループレヒト以来3世紀ぶりのこと。

Elector Karl Albrecht of Bavaria
カール7世(神聖ローマ皇帝) Elector Karl Albrecht of Bavaria ゲオルク・デスマレー画(1766年頃)

↓カール7世の妻マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ(1701-1756)。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の次女。
ニンフェンブルク宮殿にあるロココ様式の離宮アマリエンブルクは夫が公妃のために建てさせたものだ。

Maria Amalie von Österreich
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結婚に際し、マリアは自身のハプスブルク家継承権を放棄していたのだが、従妹マリア・テレジアと同じ神聖ローマ皇帝の娘という立場であったため、マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を相続することになると、夫カール・アルブレヒト選帝侯が妻の権利を主張し始める。「「こっちにも神聖ローマ皇帝になれる権利があるぞ!」と。カール・アルブレヒト選帝侯がオーストリア・バイエルン戦争を起こし、1741年にチロルとボヘミアを占領、ボヘミア王、神聖ローマ皇帝に即位した。
久しぶりに神聖ローマ皇帝が誕生したと思ったら、こういうことだったわけね。

子どもたちは、 ザクセン選帝侯妃、バイエルン選帝侯、ローマ皇帝ヨーゼフ2世妃など。

政略結婚の果て:選帝侯カール・テオドール夫妻

次は選帝侯カール・テオドール(1777-1799)と妻たち。
カール・テオドールといえば、ハイデルベルク城やネッカー川にかかるカール・テオドール橋を思い浮かべる。だが、結婚に恵まれないのはなぜなのだろうか。

選帝侯カール・テオドール
カール・テオドール(プファルツ選帝侯、バイエルン選帝侯)
エリザベート・アウグスタ
エリーザベト・アウグステ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ(1721-1794)

↑従弟同士の結婚をしたカール・テオドールの最初の妻エリーザベト・アウグステ。結婚生活は幸福ではなかく、エリーザベトは結婚20年目にして長男を1762年に生むが、生後1日で亡くしてしまった。エリーザベトとカール・テオドールは以後別居し、それぞれ愛人をつくったものの、決して離婚しなかった。二人の間に子が育たなく、お家断絶の危機。

↓そこで、2度目の妻ハプスブルク家のマリアに白羽の矢が立つ。

Maria Leopoldine of Austria-Este 
Maria Leopoldine of Austria-Este (1776-1848)

マリアは神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジア夫妻の四男フェルディナント大公の三女で、18歳のときに後妻として70歳のカール・テオドール選帝侯と結婚した。プファルツ=ズルツバッハ系ヴィッテルスバッハ家の断絶を避けるため跡継ぎを生むことを期待されたのだが、彼女は夫を拒否し、カール・テオドールは嫡子を得ないまま死去した。バイエルン選帝侯位は遠戚に行ってしまう。

やはりいたのだ。こういう政略結婚でも男を拒否するお姫様が。マリアは農園や醸造所を購入して事業をはじめ、大きな財産を得た。お家のためには尽くせなかったが、結婚が嫌なわけでも、働きたくなかったわけでもなかったのだろう。70歳のじいさんに嫁ぐ少女。どちらも可哀そうになってくる。

↓こちらはレジデンツにあったマリアの肖像画。少女の面影はない。愛人の子を産み、その後、伯爵と結婚した。
寡時代の肖像画だろうか。なんか、暗い感じのかわいらしさのない女性だ。

Maria Leopoldine of Austria-Este (1776-1848)
Maria Leopoldine of Austria-Este (1776-1848)

その他肖像画

↓詳細不明。

イタリア人画家(1500-1571)による「エレガントな女性」の絵。手に扇子を持つ。

 

ルートヴィッヒ2世が誕生した部屋

ノイシュバンシュタイン城をぶっ建てたあのルートヴィヒ2世が生まれた(1845年)のもここニンフェンブルク宮殿である。
こちらはルートヴィヒ2世の生まれた部屋で、高級なエメラルドグリーンのダマスク織りの壁紙で統一されている。絹の生地を壁に貼っている部屋で、貴族のお屋敷の描写によく出てくるもの。芸術狂いの王がここで誕生している。

ルートヴィヒ2世
ルートヴィッヒ2世

お母さんは前編で紹介したマリー王妃。小さいころのルートヴィッヒ2世と弟のオットーを抱いている。ちなみに、ルートヴィッヒ2世は男前で民衆から当初はとても人気があったとか。とすると、母親のマリー王妃も若いころはキレイだったのかもしれないが。

馬車博物館

馬車博物館にはルートヴィッヒ2世が使っていたキラキラの馬車があるということでも目玉になっている。あの方は白馬が似合う。そして、どこまでもディテールにこだわっているのか、馬車がまばゆいばかりの装飾で埋め尽くされている。

馬車博物館

もう、どこを見ていいのかわからない。

↓こちらはソリ。雪国なので。

模型や絵画で見る方がイメージがわく。雪の期間は馬そり、夏は馬車。

やはり馬は白なのだろう。

こんな行列をなしてお通りしていたわけだ。

Others

世界的に有名なミュンヘンのオクトーバーフェストの絵があった。1823年のもの。
オクトーバーフェストは、1810年にルートヴィヒ皇太子(のちのルートヴィヒ1世)とテレーズ王女の結婚式が都市の城壁の前の緑地で行われたのに際し、大規模な競馬を催したのが始まり。以来この緑地が、テレーゼ緑地と呼ばれ、第2次世界大戦まではオクトーバーフェストの定期的なイベントとして、テレージエンヴィーゼで競馬が開催されていた。

Oktoberfest 1823
Oktoberfest 1823

オクトーバーフェストは世界最大の祭で、新しいビールの醸造シーズンの幕開けを祝うものだが、結婚式やら競馬が絡んでいるとは思わなかった。

庶民がモデルの絵。魚を干している。

↓は庶民の生活と恋愛がテーマ?

いろんなシーンがあり、自由恋愛の様子が描かれている。これも、自由恋愛が不可能であった貴族たちの願望なのかもしれない。

馬車のレース?詳細不明。

 

なお、中世・近世ヨーロッパの衣装シリーズはこちら>>ファッション・ギャラリー