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【イタリア】ルネサンスの何が凄いの?

ダヴィテ王 イタリア

ルネサンスて、芸術のこと?

イタリア旅行前のこと。
ルネサンスを思うとき、「レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが凄いのはわかっているが、果たしてその程度の知識でぶらっとイタリアに行っていいものか?」と心から思った。あんなちっぽけな地域に天才がゴロゴロいたわけだが、芸術のすばらしさ以外ピンと来ない。

マジメな天野川は、「そんなんじゃ、いかんだろ!」と旅行前の予習に励むことにした。

ミケランジェロ「ダヴィテ王」
ミケランジェロ「ダヴィテ像」

ルネサンスとは何であるか、自分なりの答えを出したい

私は大学で西洋史を専攻したのだが、大学受験では教科書は覚えた。社会に出ていろんなガイドブックも読んだ。だが、それだけではあの時代をとらえるにはまるで足りなかった。

どうやらこのモヤモヤ感は、私だけではなさそうだ。
あの古代ローマ関連の著作で有名な塩野七生でさえも、大学の卒業論文のテーマに15世紀フィレンツェの美術を選んで勉学に励みながら、当時浮かんだ数々の疑問も「しかし日本人の手になる研究書を読んでも納得できなかった」のだから。

一般的に、ルネサンスというと「再生」「復興」とか「人間中心」とかいうが、どういうことか?
メディチ家に富があったから、天才たちのパトロンになって…つまり、金か? それだけか?
そんなこんなで、言葉だけが滑っていた学生時代を思い出した。

ダ・ヴィンチやラファエロら天才たちの作品を挙げ連ねて、それで満足するわけではない。

問題は、細かい話を知りたいわけでも、ツウになりたいのでもなく、この時代を俯瞰して、14世紀より起こったあの時代のうねりとは何であったのかをつかみたい。それだけなのに、それを叶える書物に出会えなかった。
だから、旅行前に私をナビゲートしてくれる本を改めてチョイスし予習したうえで、現地に飛び、どうしてあの地でルネサンスが起こったのか、そしてあれは何であったのか発見したいのだ。

小難しいのはイヤ、でも本質を知りたい。やるからには挫折はしたくない。そういう方の一助となるよう、最適な書物推薦に努めたいと思う。もし書物に興味がなければ、その部分はさっと流して概念だけ読んでほしい。

【読み物イントロダクション】楽しくイタリアのお勉強

予習であっても、楽しく読めることが一番だ。私のオススメはこうだ。

ビジュアルで簡単な導入を経たら本番!

漫画家先生より芸術家たちへの愛を披露してもらい

次に歴史ミステリー小説のなかで当時のイメージを膨らませ

最後に…より歴史的意味合いが俯瞰的にわかる良書を読む

さて、読み物のトップバッターは、テルマエ・ロマエの漫画家ヤマザキマリのエッセー。
芸術家としての切り口でルネサンスを論じているのだが、それは彼女が漫画家である前に、画家を目指してフィレンツェに渡ったという気骨のある芸術家であるからできること。

ホンモノを目指した彼女ならではの視点は面白い。小難しい展開がないのは、あえてそこを狙っているのだと感じる。

その次は、イタリアといえば塩野七生
学生時代の私は、彼女の作品に苦手意識があったのだが、大人になって改めて読んでみると、面白さがビシビシ胸にくる。

なお、その前後に天野川の解説を挟んだので、中世という暗黒の時代の次に出てくる“文化の光”としてルネサンスを感じつつ読み進めていただければ幸いである。
中世の何がどう暗黒なのか? だからルネサンスが光り輝く、ということを意識したい。

【ビジュアル系】『週刊 世界遺産』

読み物の前に、まずはビジュアルで雰囲気をつかんだほうがスムーズだ。

過去人気だった『週刊 世界遺産』シリーズを紹介する。
世界遺産というルネサンス人が残した素晴らしい作品群を通してその土地を知ることができるツール。情報は古いかもしれないが、専門家たちによる解説があり、図説としても使える内容であるので、古書として安く入手してはどうだろうか。

以下、書籍はクリックすると、Amazonに飛ぶ。

  

テルマエ漫画家目線でルネサンスを見る

『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』は、他の方の読後感想にもあるように、歴史も芸術もさほどよくわかっていない人でもサ~~っと読める本であるということで、私はこれから始めることにした。



肩がこらずに読破できる理由は、ルネサンスを牽引した芸術家、つまり「変人」たちにスポットを当て、作品および作風や性格、変人の人生などを通して、美術をわかりやすく論じているところだろう。

本書を読んでよかったと思ったのは、女好きのフィリッポ・リッピを知れたことだ。
名だたる巨人たちの影に隠れているせいか、日本では皆が知るほどの画家ではないが、彼の「聖母子と天使たち」はウフィツィ美術館で最も美しいと感じた絵で、実際ファンも少なくない。

フィリッポ・リッピ
フィリッポ・リッピ「聖母子と天使たち」

「女性を描かせたらピカイチ」というのもうなずける。
フィリッポ・リッピは好きなものを描かせると凄いが、それ以外はそれほど上手くないとヤマザキマリが断じている。それを思い出して、ウフィツィ美術館でこの絵を見て笑ってしまった。

これは彼の妻と子がモデルとされているのだが、このような女性としての色気や美しさを絵画で表すことができたのも、そういう画風が当時ウケたのも、ルネサンスという時代であったからだ。
時代が違えば、これは悪い絵として扱われただろう。

中世との対比なくしてルネサンスはわからない

ルネサンスを語る前に、中世が「暗黒時代」と言われるゆえんを説明せずには、わかるものもわからない。

中世が暗黒で、その次のルネサンスが復興というなら、「中世の前に戻れ!」ということだから古代ローマ時代の文化が最高にすごかったことになる。実際は、中世では古代ローマ文化が否定されていた。ゆえに、長い長いトンネルを経て、14世紀になってやっと再評価のうえ再興させたことを「ルネサンス」というのだろう。

古代ローマといえば、裸体彫刻。改めて、人間自体が美しい、と。

  1. 古代ローマ>>文化的に素晴らしかった!
  2. 中世>>キリスト教会がすべてにおいて支配的だった暗黒時代
  3. ルネサンス>>復興:14世紀に古代ローマを再認識
  4. 近世・近代・現代…続く

ルネサンスの前まで、つまり中世では、絵画とは宗教画であり、神に捧げるものか、文盲の庶民のために絵で聖書ストーリーを示す役割があった。どちらにせよ、教会から逸脱するような個性はいらなかったのだ。

ボローニャ

逸脱とは…女性は聖女のように描かれているべきだとされ、色気ゼロ。古代ローマ時代の裸体彫刻は悪の象徴で、川に打ち捨てられたままのものも多かった。
笑ってしまうが、男性像のイチモツには布がかけられていたほどで、要するに性的なものはよろしくなかったのである。

イタリアの教会や修道院で最もよく見かけた女性のモチーフが、処女にして受胎する聖母マリアというのも偶然ではない。

ルネサンスを思うとき、対比として、それ以前の中世社会を支配していたキリスト教会の“押し付け”が浮かび上がってくる。

中世が“暗黒時代”と言われるのは、人間らしさを否定したことだろう。

こんな絵のように、中世絵画の表情は「悟りを開いた」ような感じで、赤ちゃんらしさもない。芸術であっても、いや、芸術だからこそ、人間の欲望、生や性、個性を没して描くことをよしとした。

アカデミア美術館
アカデミア美術館より。コワい顔。
Francucci Innocenzo, Madonna con Bambino e san Giovannino 16世紀の前半
悟り顔。同じ聖母子の絵画でもこの違い…

これらを理想とすれば、現実がいかにかけ離れていようと、人々の生活も説教を受けながら抑圧されていたことが想像される。

ところで。
先日、芸術をみても、「わぁキレイ」くらいの言葉しか出ない子にイタリア旅行の写真を見せた。すると、

「上手い絵のなかに下手な絵が混じってる!」と言った。感受性の強い子どもが素直に吐く言葉としては歓迎するが、ヨーロッパ旅行をいくつもしている人なので、「時代とか歴史にはホントに興味ないんだな」と絶句した。

写真を撮った順は、時代を順立てて追ってないため、バリバリの中世色の強い平面的な宗教画とルネサンス以降の絵とが混然としており、2D絵画と奥行きののある3D絵画が混じっているわけで、そう見えるといえばそうだが……。
13世紀までの美術は、線画で平面的な宗教画が基本であった。それがジョットが初めて聖書上の神々を立体的に描いたことから芸術は変わった。

表現は、時代とともに変遷し、流行りや好みはまさに時代を象徴するようなところがある。ルネサンスの前と後で「良し」とすることが違ったということだ。

ルネサンス芸術は、そんな暗黒の1000年に一穴を開けた

パトロンが教会のエライさんではなく、成り上がりの銀行家メディチ家であったのも良かったのだろう。

中世では、圧倒的多数を占める善良な人々は、生きていくのが精いっぱいで、キリスト教的視点でいうと、彼らはなにがしかの“罪”をすでに負っていることになる。聖書が説いたのは、人の上に神があり、人は無力な罪びとであることだ。教会がその罪を挙げ連ねて脅かしながら、教え諭している構図が透けて見えるのだ。

勝手に「緊縛の中世」と表現するが、これが1000年続いてきたら、いきなり変化を遂げる前にちょっと考えて、様子をみるのが普通ではないか、と。

「われわれは神をこれまで通り、いや、これまで以上に敬います。…が、きらびやかで、美しいものの、何がいけないのか?」と金持ちたちは思ったはずだ。だが、それを全面に押し出すと、下手すれば教会から破門されてしまう。生きていけなくなる。

「え~っと。まずは神の世界や教会を煌びやかに飾り立てて差し上げ、で、そのあとわれらの身の回りも飾ろうか。ねぇ、絵師どの、才能あるね。ワシらの肖像画も描いて」

「アタクシも! フィリッポ・リッピみたいな画風でキレイに描いてね! ギャラ弾むから」

と言ったかどうか知らないが…お金持ちは肖像画を描かせるようになる。

ロレンツォ・イル・マニーフィコ
偉大なるパトロン、ロレンツォ・デ・メディチ
マリー・ド・メディチ
マリー・ド・メディチ
ラファエロ
ボッティチェリ本人が絵の中に。画家の自画像を入れる作品も見られるように。自己顕示欲もOK。

暗黒を突き破った小さな穴は少しずつ広がり、気づけば裸の女性もOKだし、男性のイチモツも露出OKになった。
ローマ時代の裸体が再び「美しい」と再評価されたのだ。
だから、川に打ち捨てられていた裸体彫刻は、めでたく救い上げられ、お金持ちが競って高値で買い取るほどで、それらは芸術家たちのお手本として飾られるようになる。

そういう目でルネサンスを見てみよう。こんな絵も許されるようになった。

ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」
ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」。ほとんど裸。
なまめかしい裸の男女。一応、天使がいるから宗教画?
「理想のヘッド」(ギルランダイオ作1570年)乳首がこっちを見ている。。

中世では、絵画であれ、立像であれ、着衣姿が普通で半裸なのはイエス・キリストくらいなものだった。服に覆われたモチーフに見慣れた人々が「完璧なまでの裸の肉体美」を見た時、“衝撃が走った”のではないだろうか。

もはや時代は変わった。ミケランジェロのダヴィテ像も、布で覆う箇所などない!

ダヴィテ王

芸術に科学を持ち込んで、最先端を表現

ルネサンスでも、聖書モチーフや聖人を描くことが多かったが、その中にいろんな技術的試みがなされた。

例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチは絵の中に遠近法を取り入れたり、絵具の改良もした。自然を科学ととらえ、人間の肉体も隅々まで知り尽くそうと、人体解剖までするパッションにあふれている。中世の常識を脇に置き、押さえつけられても沸き起こるあくなき追及を堂々と具現化する場が芸術であったのかもしれない。
体裁を整えていれば、文句を言われないのだから。

「ほら、ちゃんとマリア様を神々しく描き、キリストの受胎告知シーンを描いているよね? オーダー通り?」

レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」
レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」

フィレンツェのドゥオーモを設計したブルネルスキは、古代ローマ時代の建築を研究し、幾何学を得意とした建築家である。当時のトップ数学者トスカネッリと交わって教えを受け、従来考えられなかった巨大なドームを完成させることができた。ただの過去の焼き直しではなく、彼の計算し尽くした技術によってその建築物は永遠になった。フィレンツェの「温故知新」の象徴かもしれない。
そして、技術的に優れているだけでなく、だれもがうっとりするほど美しい。

ブルネルスキのドゥオーモ模型
ブルネルスキのドゥオーモ模型。ドゥオーモ附属美術館
ドゥオーモ

なぜフィレンツェでルネサンスが起こったか

それはどう考えても、ローマから程よく離れていたからだろう。

ローマ・カトリック教会の総本山があるローマのど真ん中で、突然はっちゃけた絵を描く勇気など、期待してはいけない。フィレンツェにしても、その他の都市国家も、聖職者権力でがちがちの地域とは違う自由な雰囲気があったことが成功の要因のはず。
おまけに、近くのローマには、古代の素晴らしい作品がそこかしこに転がっていて、参考品に事欠かなかった。ズバリ、地の利ということだ。

スポンサーも言うことなし。
フィレンツェでは、貴族でも聖職者でもない、成り上がりの金持ちメディチ家などが政治権力までも握り、その財力で芸術に金を注ぐことができた。そして、繰り返しになるが、当時の絵や芸術の類は神と教会に捧げるものであったため、宗教画や彫刻、宗教がらみの建築物などはオーダーしやすく、いくらつくっても文句を言われるものではなかった。

パトロンが神に捧げる美術品をたくさんオーダーした。それも、当代随一の素晴らしいものを。それがキリスト教徒としての神への愛のカタチに映るわけだから、好都合。

一方で、ときにコンペで競わせるなど、芸術家を甘やかさなかった。そして切磋琢磨した職人、絵師などがどんどん集まってきて、天才が才能を爆発させ、さりげなく彼らに貴族や聖職者たちの肖像画や装飾品を作らせて、芸術の幅を広げていった。
芸術家という職業ができたのも、このころである。

そしてもうひとつ、このころのイタリアのお屋敷ではそれら芸術品や古代ローマ時代の裸体像などを飾るのが流行っていたそうだ。そして気前のいいことに公開しており、若き芸術家らはそれらを普通に見学することができた。未来の天才たちは、別の天才の芸術を見てインスパイアされたことだろう。

時代小説で知るヴェネチア・フィレンツェ・ローマ

3つの殺人事件、3都物語となっている塩野七生の時代小説3連発を紹介する。

  • 『緋色のヴェネツィア』
  • 『銀色のフィレンツェ』
  • 『黄金のローマ』

続き物で読めるし、登場人物は主人公の2人以外、実在の人物となっている。

なお、時代小説と歴史小説は定義が違うので、ここでは主人公が架空ということで「時代小説」としたが、歴史背景や登場人物はがっつりその時代であるので、当時の雰囲気はわかってもらえると思うし、歴史を知らなくてもどんどん読み進めることができる。

メディチ家の人々や芸術家も登場する。現代のイタリアとは違って群雄割拠の時代だったのだが、それぞれの都市国家の特徴や雰囲気の違いも味わえる。

映画で知るヴェネチア

上記3部作小説に出てくるヒロインは高級娼婦である。

マーガレット・ローゼンタール原作の伝記小説「The Honest Courtesan」を映画化した『娼婦ベロニカ』もしくは『Dangerous Beauty』(1998年)も娼婦ネタなので紹介したい。高級娼婦は美貌と教養を兼ね備えた女性がなれるものとして描かれている。実際そうであったのだろう。時代背景、結婚観、男女の関係が透けて見えるのはもちろん、衣装も素晴らしい。

必読書!『ルネサンスとは何であったのか』

この、どストレートなタイトルを平気でつけられるのは、正統派の塩野七生ならではだ。
彼女は大学で哲学科を専攻し、卒業論文のテーマに15世紀フィレンツェの美術を選んでいるのは先述の通り。そしてルネサンスを書いたから、古代ローマに関心を持ったのだという。

なぜなら…

中世を支配してきたキリスト教的な価値観の崩壊に立ち会ったルネサンス人と、近代を支配してきた西欧的価値観の崩壊に立ち会っている私。ならば、彼らが新しい価値観を作り上げるためにまず回帰した先が古代のローマなのだから、私も回帰し、それが何であったかを冷徹に知ることが先決すると思ったのだ。

>>塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』,「読者へ」より

赤線を引っ張る箇所がやたらある。付箋も貼りまくった。こんなに赤線を引っ張りたくなったのは大学卒業以来だ。塩野七生の『ルネサンスとは何であったのか』は、それくらいの凄い本である。

対話形式なので、読みやすさにも配慮されており、それほど難しくはない。

もし、時間がないなら、この1冊だけ選ぶもよし。
ヤマザキマリも「ルネサンスとは」を語っているが、やはり両氏の歴史に対する深度が違いすぎる。
これは人間の歴史を俯瞰してきた塩野七生が、自身の原点でもあるルネサンスを考察している良書である。

ルネサンスとは何であったのか

  

余裕があれば『ルネサンスの女たち』も読みたい

この先は、塩野七生のエッセンスを吸収する以上のものが見当たらない。

『神の代理人 』でローマ教皇についてお勉強

キリスト教会のトップであるローマ教皇のお膝元で起きた話も興味深い。

そうそう、金で罪があがなえるとして、免罪符を売っていた教皇もいたっけ。

下記の序を読んだだけで、作者の俯瞰する能力が高いことがおわかりいただけると思う。歴史を学ぶとは、そういうこと。

…ルネサンスは創り出したけれど宗教改革はしなかったという、宗教的には少々不まじめな、それだからこそ人間性の現実を直視する能力には優れていると言えなくもない、イタリア人を知ってしまったのです。
(略)これを読んだら、ルネサンスはイタリア人のもので、宗教改革はドイツ人のものであることもわかってもらえるだろう、と願いながら。

>>塩野七生『神の代理人』


まとめ:ルネサンスのスパークの果て

塩野七生が考えるルネサンスとは、「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発」であり、「精神運動の本質だった」としている。

彼女がいうように、「中世を支配してきたキリスト教的な価値観の崩壊に立ち会ったルネサンス人」が文化のうえで少しずつ自由になったことで、学問や技術の発展が促進されたのは紛れもない事実であろう。

「緊縛の中世」が崩れて、知的好奇心の爆発を経たのち、ヨーロッパの人々は果敢に地中海から外に出て、大航海時代を迎える。教会の教えでは、「世界は平面で、その先は崖になっている」はずだったが、自由な発想の旅人たちは地平線の果てが崖になっているかもしれないリスクをおかして大航海を決行する。

知れば知るほど「外の世界を見たい」「発見したい」「もっと知りたい」と願う天才的な“変人”らがイタリア内外でどんどん活躍して外の世界を享受することは止められない。こうして、世界周航で地球が丸いことがわかると、今度は国家プロジェクトとしてグローバル社会へと突き進むことになるのだ。

だが、ちょっと自由になったからといって、教会はこれまでの教えに異を唱えたり、盾突いたりすることを許さなかったのも事実だ。

例えば、教会は天動説「地球は動かないし、ほかの星が地球の周りを動いている」としていたが、17世紀「世界の中心に不動であるのは、地球ではなく太陽である」というガリレオ・ガリレイの地動説を「異端」であるとして潰そうとした。
異端審問にかけられたガリレオは、有罪となり、終身刑を言い渡されてしまう。「異端の教えを放棄し、嫌悪いたします」とやむなく自身の意見を取り下げて、裁判直後に軟禁に減刑されている。

ガリレオ・ガリレイ
“天文学の父”ガリレオ・ガリレイ。「それでも地球は回ってる」

結果をみれば、歴史上どちらが勝ったのか明確だ。
教会は権力を振りかざして科学の発展を阻害したが、幾人もの学者が「それでも地球は回ってる」ことを証明した。

ガリレオ・ガリレイに限らず、多くの学者たちは真実を唱えたがために不遇のまま死んでいったが、研究は生き残り、後世の人がそれを発展させてきたのだ。

私たちが生きているグローバル社会と、ルネサンスはどこかでつながっている。歴史を学んだとき、そのつながりを発見し、自分たちに無関係ではないと実感できて、少し賢くなった気持ちになる。

それにしても、人間とはどこかで抑圧されたほうが、才能を爆発させる原動力を得て、大輪の花開かせるものだ。苦労は報われる。
「緊縛の中世」が終焉を迎えるころ、あのちっぽけな地域に天才がキラ星のごとくいて傑作をあまた輩出した不思議を考えると、暗黒でさえも、そのスパークの着火剤になれるということか。ルネサンスとは、芸術を表現した言葉ではなく、「精神運動の本質」というのは本当かもしれない。
彼らルネサンス人に敬意を払いたくなるのは、私だけではあるまい。

また、ルネサンスの後には、宗教というものをとらえる目も変容した。
キリスト教の教えは、時の権力者によって宗教という名の料金所となり、天国に行くためには罪の赦しを得る代償として貢物が必要になったのだが、それに対し「否!」と言って宗教改革を唱えた人たちが生まれ、プロテスタントとして袂を分かったことも無関係ではない。時代はそうやって動いていくのだ。

あぁ、晴れた。
モヤモヤしていた「だから、ルネサンスの凄さってなんなのさ?」への答えを、やっと自分なりに見つけられた。
私にとっての「ルネサンスとは」と、あなたにとってのルネサンス像は違うかもしれない。
それぞれのルネサンスをどうぞ楽しんでいただきたい。

参考:近代が終わる今、中世の終わりを俯瞰する

さて、伊藤貫という政治アナリストが面白い視点で”今”をとらえているので紹介したい。

中世とは、目の前の現実や物質より、人間が心に持つ神や精神を重んじる時代。
人間は神聖なるものを崇めていた。
行き過ぎた面があるけれど、その反発としてルネサンスが起きた。

>>動画が削除されたため、貼り付け表示できません(天野川より)

「行き過ぎた面」については、私がすでにお話した。
ルネサンスは終わりを告げるゴングのようなものだった。そして500年経った今、近代が終わろうとしており、また別のゴングが鳴りまくっているのを私たちは耳にしている。

中世は精神を重んじた時代であったから、芸術が育ったのかもしれない。当時に創られたものは今でも価値を持ち、爆撃されても再建されるほどの魅力にあふれている。
それに比べて現代はというと、文化的につまらないどころか、その国の伝統までも意識的に壊そうとしている。
差別だ何だと言って国柄を否定し、世界を統一しようとしている人たちがおり、私たちはそれをぼんやり眺めている。

世の中はTシャツとジーパン、世界の共通言語は英語、男だの女だのぐだぐだ言うのは間違っており、効率ばかりを追い求める刹那的な時代になってしまった。

この動画は、数百年という単位で歴史をわかりやすく振り返ってくれているので、視聴をおすすめする。

旅の参考

イタリア旅行では芸術に関わる写真を撮ってくると思うが、より面白い旅にしたいなら…という知識と情報をお知らせする。

ルネサンス期の聖母マリア像とフェルメール・ブルー

イタリアに行くと、死ぬほど宗教画を見ることになる。ルネサンス期の聖母子像がナンバーワンだろう。

【マニフィカトの聖母】サンドロ・ボッティチェリ(1483-1485年)
【マニフィカトの聖母】サンドロ・ボッティチェリ(1483-1485年)

そのマリア像は、絵のように青とピンクの衣装で描かれるのが実に典型であるのだが、その鮮やかなブルーをウルトラマリン」といった。それが最も重用されたのがルネサンス期であり、後世のフェルメールが用いたあの青も、実はウルトラマリンのことであその話を記事にしたので紹介する。

また、天野川が撮影した青い衣をまとった肖像画を多く載せているので、比較して見ていくことができる。ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなど、巨匠たちは必ずといっていいほど聖母子像やキリストの磔刑を手掛けており、宗教画の数々でウルトラマリンを印象的かつ効果的に用いていたことがわかるだろう。

その被写体が何であるのかを教えてくれるアプリ

スマホアプリをよく知らない人のために、念のためお知らせする。
Googleフォトというアプリを使えば、タップひとつでその被写体が何であるのか教えてくれるのだ。

  1. 写真をスマホ撮影またはGoogleフォトにアップロードする。
  2. Googleフォトでその写真を選択したら、画面下部にいくつかマークが出てくるので(下図の「ヴィーナスの誕生」を例に)、一番右の赤枠部分のマークをタップする。
GoogleLens

すると、Google Lensという機能が立ち上がり、Googleの膨大な情報からその被写体を判別。画面下部にその候補を出してくれるので、ドンピシャだと思うものをタップすると、名前がわかったり、別のサイトに飛んで調べものができたりする。検索機能と繋がっているということだ。

今回は、この機能に助けられて、多くの芸術品の名や歴史がわかって、本当に有意義な旅行となった。世の中、本当に便利になったものだ。

ミケランジェロの裸体彫刻

ミケランジェロの追っかけ旅行をした天野川らしく、およそ考えつく限りの角度から「ダヴィデ王像」を撮影した。せっかくなので、こちらも余すことなく披露しているので紹介したい。

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