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ホーエンツォレルン城【4】 2つのホーエンツォレルン家

ホーエンツォレルン城 ドイツ

 2つに分家したホーエンツォレルン家

現在、主要なホーエンツォレルン家は2つある。1214年、伯爵家の子どもたちに対し、相続財産の分割がなされ、これによって大まかには2つの家系に分かれて、現在に至っている。

ホーエンツォレルン城

1つはフランケン家。
世界史に登場するドイツ初代皇帝ヴィルヘルム1世はこちらの家系だ。分家後、フランケン家は中・北部フランケン地方へ進出し、後にプロイセン王、そして普仏戦争後はドイツ皇帝を輩出した。
いまひとつはシュヴァーベン家。
引き続き先祖伝来の地、城の周辺シュヴァーベン地方に定住した。

第3の城:再建の出資比率と城の所有権比率

この2つの家系、ひとつは中央政界へ打って出て世界の歴史舞台に登場したし、もうひとつは日本人にはおそらく知られていない地域社会への貢献があって実に興味深い。

それはさておき、”950 Jahre Hohenzollern –One Dynasty – Two Aristocratic Families–” という城で販売されている冊子を読んでいるとよくわかる。やはりドイツ皇帝を出した家系が絶対的に上であるということが。フランケン家のプリンスが先に登場し、シュヴァーベン家のプリンスはその後にしか現れない。

そして…
城は19世紀に再建されて現在の第3の城に至るわけだが、あるとき、フランケン家系の、後にプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世となる皇太子が先祖発祥の地ホーエンツォレルン城を訪れ、その荒廃ぶりに心を動かされて、再建を誓うところから始まる。
その再建プロジェクトは、分家した事情や資金調達の問題などがあったが、間に外交手腕に長じた歴史研究家が入り、1864年、建設費の3分の2をプロイセン王家が、残りをシュヴァーベンの2つの侯爵家が負担する形で契約が成った。今日の所有権比率も、これに基づいている。
さて、2つの家系が協力しあって再建することになったが、カトリックとプロテスタントという宗教上の違いがあった。結論として、どちらのチャペルもつくるということで決着している。私が城を訪れたとき、チャペルには自由に入れた。そして、「なぜに2つ、別々にあるのだろうか」と思ったのも、今となればこういうことだったと理解できる。キリスト教徒ならば、祭壇を見て、偶像のあるなしでピンと来るのだろうけれど。

ホーエンツォレルン城のチャペル
ホーエンツォレルン城のチャペル

場内のガイドツアーでは写真不可であるが、チャペルや地下道はOKと思う。

フランケン家系

まずは序列に従って、フランケン家系からの紹介。
当代は下図左上のゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン(Georg Friedrich von Preußen)。ヴィルヘルム2世の玄孫のひとりで、1994年に即位。
2011年ゾフィー・ヨハンナ・マリア・フォン・イーゼンブルクと結婚。
彼はもう一度ドイツに王政を復古させたいと考えているようだ。立憲君主制として。

家系図フランケン
ホーエンツォレルン家系図_フランケン >>出典:”950 Jahre Hohenzollern –One Dynasty – Two Aristocratic Families–“

シュヴァーベン家

当代は下図右上のカール・フリードリヒ・フュルスト・フォン・ホーエンツォレルン (Karl Friedrich Fürst von Hohenzollern)。
顔で判断していいのかどうかわからないが、この方を「厳しそうな人」と思って見た。

家系図_シュヴァーベン
ホーエンツォレルン家系図_シュヴァーベン >>出典:”950 Jahre Hohenzollern –One Dynasty – Two Aristocratic Families–“

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出典および参考:”950 Jahre Hohenzollern –One Dynasty – Two Aristocratic Families–” 、冊子『ホーエンツォレルン城』より

>>ホーエンツォレルン城【1】 ドイツの”天空の城”

>>ホーエンツォレルン城【2】 ”白衣の女”伝説

>>ホーエンツォレルン城【3】 天空の城写真はどこで撮る?

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