【吉野】宝物と哀史がつまった吉水神社

後醍醐天皇 関西
後醍醐天皇
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吉水神社に宝物ザクザク

吉野山最大の名勝「一目千本(ひとめせんぼん)」の眺めは、吉水神社(よしみずじんじゃ)の境内にある。

残念ながら、この動画では桜は散り、うっすらピンクのグラデーションがかかった山しか見えないが、見頃に訪れたらそれは圧巻の風景であることがよくわかる。
一生に一度は満開の桜のシーズンにこの眺めを拝みたいものだ。

一目千本

さて、本題。

その一目千本の眺めも宝物級であるが、歴史的なお宝が吉水神社にこれでもか!と展示されていることを知る人はどのくらいいるのだろうか。

有料600円で書院内展示館を拝観できるのだが、そこには後醍醐天皇の玉座やら、源義経の武具、弁慶の七つ道具など、歴史的価値のある品がズラリと並んでいた。

歴史ファンなら軽く発狂するくらいのものが普通に展示されており、思わず受付の巫女さんに「あれらは全部ホンモノですか!?」と興奮しながら訊いたほどだ。

「ええ。全部ホンモノなんです。私も最初はびっくりしました」とのこと。

「実に良いものを見せていただきました。ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。

私のほかにも、展示物を見ていた若い男性が「オレ、すげぇ興奮している」と連れにうわ言のように呟きながら展示物に見入っていた。わかる。わかるのだ。私も心の中で叫びまくり、大興奮なのを抑えて観覧した。教科書に太字で出てくる歴史上の人物ゆかりの品ばかりなのだから。

具体的な話はあとでするとして、なぜここがそれほどの展示物を所有しているのか?まずはそのあたりの歴史話からスタートしたい。時系列で話すとわかりにくいので、ズバッと有名な話から入るとしよう。

元皇居だった吉水神社

ここは元皇居であった。皇居とは、天皇が住まうあの皇居のこと。なお、天皇がおわす土地は「京」とか「都」と呼んだ。

かつて天皇家は現在の京都にお住まいだった。京都御所だ。平安時代から京都が都であったのだが、明治維新後に江戸に遷都することになり、明治天皇ご一行様が江戸城跡に移り住んだ。現在も皇族がそこにお住まいであるが、明治以降天皇がそこに住んだことで江戸は東の都となり、「東京都」になる。

余談だが、天皇がお住まいでもないのに大阪に波乱を起こして「都」と呼ぼうとしている者たちが現代に存在する。都構想を企てるイシンジャーたちである。一瞬大阪にも難波の宮があったといえばそうだが、おそらくそれとは無関係に「都」として肩を並べたいだけなのだと推察。まぁ歴史の何たるかを知らぬとこういうおかしな言葉遊びをするので、歴女としては大変気に入らない。

吉水神社

脱線したが、話を戻す。
吉水神社が皇居であったというが、主はだれか?

それは歴史上有名な後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が初代。
彼が吉野にいらしたのだが、そこが「南北朝時代」の南朝の皇居と聞けば、なるほどと歴史を少し思い出すかもしれない。

南北朝時代の概要

「南北朝時代」とは、1336年から1392年までのおよそ56年間で、朝廷が2つ、天皇が2人並立していた天皇家の分裂時代を指し、当時「南北の京にそれぞれ帝がいる」と記載されているくらいで、「南北朝時代」は後世の呼び名である。
北朝が従来の京の都、南朝が吉野の宮。地理的に吉野は京の都よりも南に位置したので、後世、北とか南とか位置で都を示したのだろう。

その吉野朝(南朝)で最初の天皇になったのが後醍醐天皇である。

時系列

鎌倉末期、天皇お世継ぎ問題勃発。幕府を倒幕

南北朝時代後醍醐天皇が政治の実権を握ろうとして問題行動を起こし、分裂)
室町時代足利尊氏が室町幕府を開く)

南北朝合一

南北朝の始まりと室町幕府が開府するのは同時である。
以下に後醍醐天皇を中心として大筋だけ箇条書きで示す。

  • 鎌倉時代中期:天皇家における世継ぎ問題勃発。「持明院統(じみょういんとう)」と「大覚寺統(だいかくじとう)」という2つの系統に分かれて争うようになる
  • 1272年 後嵯峨天皇が後継を指名せずに崩御。「鎌倉幕府の意向に従え」とした。
  • 鎌倉幕府の執権である北条時宗により、後深草上皇の子孫である「持明院統」と、亀山天皇の子孫である「大覚寺統」が交互に天皇を輩出する「両統送立(りょうとうてつりつ)」を決定。天皇も代わりばんこでやろうね…ということ。
  • 1318年 甥が成人するまでの中継ぎ役として後醍醐天皇が即位(大覚寺統の傍流)。
  • 後醍醐天皇の不満が爆発。持明院統・大覚寺統の嫡流とも対立しつつ、自らの子孫に皇位を継承させるために倒幕を計画。2度の失敗。
  • 1333年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし「建武の新政」開始。
    ※「新政」:天皇自らが政治をおこなうこと。
  • 1336年 足利尊氏が離反して挙兵。建武の新政がわずか3年で瓦解。
足利尊氏が室町幕府を開く(北朝):持明院統の光明天皇を擁立。
光厳天皇、光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇
※赤字の天皇は三種の神器なしで即位
後醍醐天皇が京から奈良の吉野に逃れ、自身の正当性を主張(南朝)
後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇
  • 1392年 室町幕府3代将軍足利義満が南朝と交渉。「明徳の和約」を締結。
    南朝の後亀山天皇は吉野から京に戻り、北朝の後小松天皇に「三種の神器」を譲って退位。南北合一に至る

三種の神器を持って吉野に逃げた後醍醐天皇

南北朝時代、皇位の象徴である「三種の神器」を持っていたのは南朝の天皇だったんだな。

そうだよ。後醍醐天皇が「三種の神器」を持って吉野に逃げたんだから。

さて、南北朝時代をどういう角度でみるのかさまざまあるのだが、天野川は思い切ってお宝を軸に話を展開したいと考えている。というのも、後醍醐天皇が吉野に御潜幸(落ち延びる)の際に「三種の神器」鏡・勾玉・剣をちゃっかり持っていったことをフォーカスすれば、日本という国が何を大事にしているかうかがい知れよう。

なぜなら神話の時代からずっと歴代天皇の即位は「三種の神器」ありきなのだから。

そして南北朝時代、ず~っとこの三種の神器をどちらが持っているのかが問題のタネとなり、最終的にそれをしかるべきところに納めて決着している。

後醍醐天皇

後醍醐天皇

つまりさ、「三種の神器」を持っていることが天皇としての証だと思っていたけど、北朝は持ってないのに即位できたんだな。

いや、北朝も「こっちだって持ってるよ」と言い張ったんだ。
お互い「こっちが本物だ」と言って譲らなかった。
でも、最後に「三種の神器」を北朝に譲った南朝は、なんだかんだ言って負け組じゃない?

と思うだろ?明治時代に逆転満塁ホームランだ。

(‘_’)どういう意味?

明治の逆転話はあとでするが…それにしても、持ち逃げした側とすれば、どこにそれらを納めておくのか、だれが保管するのか、だれがその保管場所を知っているのか、なかなかそわそわする話だ。いつ盗まれるとも知れない恐怖。
持っていないのに持っているフリして即位した天皇も、持っているが失うかもしれないと怯える天皇も、なんだか可哀そうになってくる。

北闕門

北闕門(ほっけつもん、書院内)

吉水神社の北には「北闕門」という邪気払いのパワースポットがある。吉水神社は明治前まで吉水院という寺であった。明治の神仏分離により神社に変わって吉水神社となったが、元は山伏(修験道)たちの寺であり、祈りの場なのであった。
後醍醐天皇がここに南朝の宮を置いていたときも、朝夕にここに立たれて、京の方角…北の空を仰いで九字を切ったという。つまり、京都に凱旋できますようにと祈り、印を結んだのだ。

三種の神器があっても彼の願いは叶わなかった。京に凱旋するどころか、無念のまま病に倒れ、悲憤のまま亡くなったという現実。

私はこの鐘を鳴らした。ちょっと悲しい音色だった。

三種の神器という宝物

三種の神器とは、天孫降臨のとき、天照大御神がニニギノミコトに神代として授けたという特別なもので、正式には八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(草薙剣:くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称である。

実は現在、実物は祭主たる天皇も実見を許されないため、その現存は確認できないとされている。実際の儀式に使われるのは三種の神器の「形代」、つまり儀式により神器に準ずるものにしてある。古来の考えだと、実物であろうとなかろうと、神なるものが宿っているかどうかなので、そういう引継ぎがなされていれば問題なかろう。
また、そうやすやすと目に触れたり、持ち運んだりするものではなさそうだ。神なるものなのだから…。

剣と勾玉はあの源平の壇ノ浦の戦いで追い詰められた安徳天皇とともに入水し水没しているとか、勾玉は箱ごと浮かび上がって源氏に回収されたなど諸説ある。

で、南北朝時代の三種の神器話に移る。

後醍醐天皇がそれらを吉野に携行していき南朝で保管した話をしたが、その後の56年の間、北朝に返したり…また一時的に南北朝が和睦した際、「壺切の剣」という立太子のときに天皇から授けられる皇位継承者の証があるのだが、どさくさに紛れてその壺切の剣とともに三種の神器が南朝に移ったりと、神器の扱いについてずっとそわそわしている。

皇位の象徴であるがゆえに、偽器だとか、どちらが本物かという主張が繰り広げられてきた。

基本的に南朝が保有しているということだと理解するのだが…

壺切の剣も手に入れた南朝ではあるが、権力差がついて不利になると、彼らは合一という道を選び、北朝に三種の神器を返すことを決める。三種の神器が京の内侍所に安置されると合一完了。のちに再び南朝が奥吉野に本拠を定め、後南朝として抵抗を続けるも、神器を失ったあとではどうにもならなかったようだ。

書院の宝物

歴女の天野川が興奮した宝物を紹介しよう。散々話してきた三種の神器以外のお宝写真であることは言うまでもない。

書院

書院

後醍醐天皇の御物(ぎょぶつ)

後醍醐天皇の玉座

後醍醐天皇の玉座

皇居だったので、玉座がある。そして、この書院自体も素晴らしく、「日本住宅建築最古の書院」としてユネスコより世界遺産として登録されている。

源義経と静御前が最後に過ごした場所

吉野を特別な場所にしているのは、吉野朝があったというだけではない。
それよりも前の1185年に兄の頼朝に追っ手をかけられた源義経と静御前は、吉水院に隠れ住んでいた時期がある。そして、こののち、義経は山伏の恰好をして女人禁制の山を越えるために静との別れを決意する。ここが義経と静が最後に過ごした場所となっているのだ。

源義経潜居の間

源義経潜居の間

静御前着用の着物

静御前着用の着物

義経の鎧

義経の鎧

弁慶思案の間

弁慶思案の間

弁慶七つ道具

弁慶七つ道具

その他文化財

楠木正成公 矢筒

楠木正成公 矢筒

天皇

天皇

豊臣秀吉愛用の金屛風

豊臣秀吉愛用の金屛風

吉野で有名なのは、太閤秀吉がこの吉野山で盛大な花見をしたことだ。ここを本陣として数日滞在している。そして、ここの庭園も花見に際し秀吉自ら基本設計をしている。

そのほか、いろいろあったが、これくらいにしておく。

後世に祭神となった後醍醐天皇

修験宗の僧房であった吉水院が明治の廃仏毀釈のあおりで神社になる。明治8年、ここが後醍醐天皇の南朝の皇居があったことから、「吉水神社」に改められた。

祭神は後醍醐天皇で、その忠臣であった楠木正成公、吉水院宗信法印も合祀している。

明治の論争:南北朝正閏論(せいじゅんろん)

で、明治時代、南朝と北朝はどちらが正統なるものか?という論争がもちあがった。南北朝正閏論である。

最終的に明治天皇が三種の神器を保有していた南朝を正統と決定したというのだから、なかなか面白い。さきほど「逆転満塁ホームラン」と言ったのは、数百年後、不利だった南朝のほうに軍配があがったからである。

皇統は主張だけでは証明できない。それに伴う神なるものが備わっていて、初めて国中から認められるのだ。
今後の日本でも血統の話が議論にのぼるだろう。そのとき、何をもって天皇と認めるのかがきっと問われる。血のほかに、国民が見ているのは天皇に国民を慈しむ大御心があるかであって、私たちは見えないものを信じる国民ということ。そして大御宝である国民と大御心をもつ天皇および皇室の信頼関係で成り立っていることを祈る。

心のつながりに契約書は不要だ。法律も実は入り込む余地がない。

京都の天龍寺

最後に。無念まま亡くなった醍醐天皇ゆかりの場所を紹介したい。
京都嵯峨野にある、庭で大変有名な禅刹「天龍寺」である。

天龍寺

天龍寺

なんと、後醍醐天皇を追い詰めた本人、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために1339年に創建した寺である。天皇がここで幼少期をすごした、とある。

こういうところが日本らしいと感じる。つまり、無念の死を遂げて祟りが起きることを恐れたのだろう。追い込んだ本人がその霊を鎮めるために尽くすという話。後醍醐天皇の心は常に京の都にあったに違いないからこそ、素晴らしい場所で静かにお鎮まりいただきたいと祈念したはずだ。

まさにたまたまであるが、私は吉野を旅して翌月に天龍寺を訪れている。

どちらも哀史と宝物にあふれ、現代においてとんでもなく人気の観光地である。偶然には違いないが、後醍醐天皇にこれほど興味を持ったこともない。三種の神器の話もまたしかり。

来年こそ、満開の桜が見たいものだ。吉野には多くの宝がある。

 

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