ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために
One For All, All For One
アレクサンドル・デュマの名を知らずとも、19世紀の小説『三銃士』の名は知っているだろう。
さらに言えば、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」、英語で“One For All, All For One”は聞いたことがあるはず。フランス語では”un pour tous, tous pour un”。古くはラテン語が初出のようだが、『三銃士』の台詞として世に広まった合言葉としてあまりにも有名。
ラグビーのチームプレイ精神を表した言葉と思っている人も多いかもしれないが、デュマが一躍有名にした合言葉である。そういう意味でも、もっとデュマ作品が評価されることを一ファンとして望んでいる。
Alexandre Dumas
(1802年7月24日 – 1870年12月5日)
1802年は、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーが生まれた年であるが、奇しくも同じ年に『三銃士』を著したアレクサンドル・デュマもこの世に生を受けている。
文学界の”当たり年”と言っていいのかわからないが、同時代を駆け抜けた2人は、ともに大人気作家となり、後世に残る作品を生み出しているものの、デュマに黒人の血が流れていることを知っている人は意外と少ない。
それは、彼の文章に人種的なコンプレックスを感じないからかもしれない。歴史小説をたくさん描いた彼は、必然的に白人の貴族社会も多く描写したのだが、自分が純血白人であるかのような筆致という印象。
それだけではない。小説の主人公もフランス上流階級で成功していることが多い。フランス王室に仕えていたダルタニヤンは、壮年期に銃士隊長に出世しているし、『モンテクリスト伯』の主人公、マルセイユの船乗りエドモン・ダンテスは、無実の罪で投獄され、14年の地下牢生活を脱した後はモンテ・クリスト伯という貴族になった。たまに黒人が出てきていても、主人公が所有する奴隷だったりするのだ。
それもこれも、コンプレックスの裏返しなのかもしれないが。
デュマの記念碑
パリ北西部の17区南部にあるマルゼルブ駅のカトルー将軍広場にデュマ像がある。立派な体躯に黒人特有の縮れた髪、祖母が黒人であったデュマの特徴をよくとらえた作品だ。
彼の下に労働者階級と思しき親子が本を読んでいるのが見えるが、階級を超えて多くの作品が愛された彼の業績を称えていると言われている。
その裏には、ダルタニヤン像もある。
作者はギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)。
あまりに素晴らしい像なので、ドレとこの像の設置について少し触れたい。
ドレは画家であり、イラストレーターとして成功を収めていたが、晩年に彫刻家デビューし、それから10年も経たずにこの作品を手がけている。このモニュメントは、彫刻家ドレにとって、もっとも重要な彫刻プロジェクトだったとされる。1883年に建てられたのだが、彼の死の年にこの作業を実現し、完成を見る前にこの世を去っているという、アーティストとしてまさに最後の仕事だったのである。
しかも、資金面で不十分な製作費しか得られないとわかっていて、これを引き受けた。ダルタニャン像の説明書きでは、当時彼のキャリアの最盛期に、この記念碑を無料で実行することを申し出たともあり、よくわからないが、いくつかのうちは無料であったのかもしれない。
デュマ・フィスは父の代わりにモデルを務め、ドレの仕事ぶりを見ていた。この竣工式にその場にいないドレに対し心からの賛辞を贈ったという。
デュマの彫刻も素晴らしいが、ダルタニヤンの男っぷりも称賛に値する。
そういうことを何も知らずにデュマ像を見に行った私は、ただただ「ダルタニヤン、素敵」と写真を撮って興奮していた。フランスで唯一うっとり眺めた男性が彫刻だったのも微妙な話だが、それほどの美のオーラが凄かったのだ。
また、この像以外にも、パリには「アレクサンドル・デュマ通り」(下記地図のポイント)と「アレクサンドル・デュマ駅」がある。
デュマがいかに“パリの王様”であったか、時代の寵児であったかがわかる。
私としたことがそんなものがあることに気づかず、いまだ行けずじまいだ。
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