「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)にみるアイヌのビジュアル
「夷酋」という言葉は現代では何者にも充てることのない文字である。
征夷大将軍の「夷」、蝦夷の「夷」、攘夷の「夷」。「夷」は「えびす」や「えみし」とも読む。
中国では異民族の蔑称であり、日本でも同等の意味合いで使用されてきた言葉であろう。古くは平安時代の坂上田村麻呂が東北に住まうエミシ(蝦夷)を討伐し、北に追い払った歴史もある。和人においては、追い払うべき対象の、主に北の民族を指してきた。
今回のテーマである「夷酋列像」は、江戸時代後期にアイヌ首長(酋長)12人を描いた連作の肖像画である。
確かに、絵を見ると、浮世絵の人物画が一般的な和人とすれば、彼らはかなり異質な風貌の男たちとして描かれている。蝦夷地(現北海道)の原住民であるアイヌは、和人にとって「夷」そのものであったのだろう。
『夷酋列像』は、江戸時代後期の松前藩の家老で、画家としても高名な蠣崎波響が、北海道東部や国後島のアイヌの有力者をモチーフに描いた連作肖像画である。
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北海道博物館開館記念特別展で「夷酋列像」を観覧する
2015年の秋、北海道博物館で「夷酋列像展」が開催されていた。
その芸術性の高さが目に留まり、足を運んでみた。私がこれらの絵に興味を持ったのはこの時だ。
通常、「アイヌ」と聞いて思い浮かべるのは下記の衣装姿だろう。
そうではなく、カラフルで贅沢な印象の「夷酋列像」。実は彼らの装いは偉い人の前で着る晴れ着であったのだ。
どんなシチュエーションかというと…
寛政元年(1789年)5月、国後島とメナシのアイヌが和人商人の酷使に耐えかねて蜂起し、現地にいた70人余りの和人を殺害した。これがクナシリ・メナシの戦いである。
事件を受けた松前藩は260名の討伐隊を派遣したが、その指揮官の一人が蠣崎波響だった。戦いを鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、さらに翌年の1790年にも協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。藩主・松前道広の命を受けた蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いた。
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天野川流にアケスケに噛み砕くと以下になる…
蝦夷地では和人の横暴が続いていた。交易では不誠実、人々は奴隷扱いなど。
これらに対してついに怒ったアイヌが蜂起したのだが、結果的には和人に鎮圧されてしまった。その際、同じアイヌの味方をせず、和人に協力したアイヌがいた。そのアイヌの有力者たちが松前藩から感謝され、藩主に謁見する機会を与えられた。
その時の一張羅は日本製でもアイヌ製でもなく、ロシアから手に入れた舶来物であった。借り物を着せられて、そのビシッとキメて謁見した様子を描いたのが「夷酋列像」なのだ。
なんと、アイヌがアイヌを裏切っており、裏切り者が一張羅を着てポージングしている。そういうことだった。
「夷酋列像」は今でいう写真の人物紹介?
画家であり、松前藩の家老であった蠣崎波響(かきざきはきょう)は、その肖像画で一体何を表したかったのだろうか。まぁ、画家であるからには「美」を追求するだろうが…。
当時は写真などない時代。高貴な人を描く肖像画ならば、後世にこんな偉人がいたという絵画芸術だと受け取れるが、何せ、彼らは「夷」なのだ。
そう考えれば、”未開の地に住む一族の長”の肖像画は、「夷って、どんな感じかというと、こんな人です」という報告の役割も果たしていたと考えるのが妥当だ。
“表彰モノの勇者”を描いたアイヌ首長の肖像画は、なんと華やかなことか。彼らが正しいとか悪いとかいう基準を超えて、蠣崎波響の「夷酋列像」は、その秀逸さのためにいくつもの模写がつくられた。
外国人にも「芸術だ」と認められ、後に蠣崎波響筆の作品は遠くフランスにまで飛び、ブザンソン美術考古博物館に所蔵された経緯もあるほどだ。
この展覧はブザンソン美術考古博物館と国内各地の諸本からなっている。
なお、このきらびやかな衣装は、実際に彼らが着てきたものではなさそうである。伝統衣装ではないうえに、蠣崎波響はその12人すべてに会って、その姿を描いたとは限らないとのこと。結構謎が多い作品といえる。
華々しい肖像画が戦いのあとにつくられ、後世に残った。
夷人を肖像画のモチーフにして、和人画家によって描かれる不思議。皮肉な経緯によって生まれたことを知り、私は妙に納得した。
それでも素晴らしい芸術には変わりがない。
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