日本人の神髄が出雲の国譲りにあるという説
神道系の男子校出身のカメラマンとたまに仕事をする機会があるのだが、お酒の席で彼は日本人の神髄というやつを熱く語ってくれたことがある。
「いいですか、日本人の神髄っていうのはね、古くは出雲の国譲りにまで遡るんです」
「ん?大国主命(オオクニヌシノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に国を譲って身を引いた、あれ?」
「そう。いちいち争わず、和を尊んで天照大御神に託す。これが日本人たる心!それが今も日本人に受け継がれている。日本人は争いを好まないんですから」
「『和を以て貴しとなす』と唱えた聖徳太子が元祖ではなくて?」
「違うんですよ、天野川さん!国譲りからです」
なんだか目から鱗であった。
私にとっては神話の世界は歴史ではなかった。神話とは、奈良時代の人が広めたかった道徳書、あるいは由緒を示す書き物であろうし、史実とはいえない、と思っていた。
しかし、考えようによっては、聖徳太子が発案したと思われている「和を以て…」は、実は別のところでの着想があり、神界の頂点たる天照大御神が日本を治めるようになったきっかけからの「いただき物」であったのかもしれない。
太子がこの国の始まりに想いを馳せた結果、国譲りを成し遂げられたのは和のこころがあったからだ、と。
つまりは、国譲りを含めた神話自体が、奈良時代に創作されたのではなく、元が別の形ですでに存在していたと想像することもできる。『古事記』『日本書紀』が奈良時代に“編纂された”とあるのは、元になる物語があったという解釈である。
といっても、聖徳太子自体も「実在しなかった」という説があるのだし、私も一時期「そうかもね」と思っていたクチなので、すべては古代史によくある「タラレバ」に過ぎないのだが。
そうそう、私は『古事記』『日本書紀』を神話扱いしたが、公には『古事記』が日本最古の歴史書であり、『日本書紀』は正史となっている。歴史書に、日本の成り立ちを語る上で必須の神話が含まれているという感じだろうか。
『古事記』の上巻1/3を出雲地方を舞台にした神話が占めている。因幡の白兎など。
話は最初のカメラマン氏に戻るが、彼は「神はいません!」と断言している。
「高校入学早々、神道を教える先生がみんなの前で『神様はおらん!』とのっけから言ったんですよ。まさかそんなことは言わんやろ、と思っていたから衝撃だった。もしそのとき、神様は絶対にいるとか言われていたら、反発していたと思う」
「ねぇ、その先生は本当は神様はいると思っていたんじゃなくて?」
「いいや。神様はいません」
謎だ。
出雲大社へのアクセス
出雲。大国主大神と天照大御神による国譲りが行われた場所。
60年に一度の遷宮も済み、今上天皇のいとこ姪にあたる高円宮典子さまと代々出雲大社の祭祀を任せられている千家(せんげ)家の次期当主・千家国麿さんの結婚式も終わって、少し落ち着いた感じのする出雲大社へと向かった。
今回は、諸事情から、往路を大阪発・出雲縁結び空港にし、復路を鳥取の米子鬼太郎空港・羽田着にして、どちらも利用した。
出雲大社から一番近いのは、出雲縁結び空港で、大阪からだとJALのみ運行。米子空港へは飛んでいない。
この後松江に寄ってから東京へ向かおうとしていたので、ちょっと遠いが、復路は米子鬼太郎空港にした。出雲縁結び空港から東京へは運行していない。米子鬼太郎空港からだとJALがないので、ANAのみの運航。
どちらの空港を使うとしても、それほど遠い近いは感じないので、JALとANAの棲み分けどおりのチョイスで問題なし。
何も考えずに空港に降り立つと、観光案内所があったので相談したら、空港バスが便利とのことだった。
空路まとめ
- 大阪伊丹空港-出雲縁結び空港=JAL
- 羽田空港-米子鬼太郎空港 =ANA
縁結びパーフェクトチケット
もし1泊2日以上の松江・出雲滞在ならば、「縁結びパーフェクトチケット」という松江・出雲周遊の電車・バスフリー乗車券(大人3000円)を利用するのをオススメする。JRの利用はできないが、宍道湖畔を行く一畑電鉄(通称バタ電)やバスなどが3日間乗り降り自由となるお得なもの。空港連絡バスも使える。
しかも、30以上の施設での割引優待もある。
出雲縁結び空港
番外編陸路:サンライズ出雲で行く夜行列車と出雲旅行
陸路、しかも夜行で行き、朝からアクティブに動きたい人向けのチョイスがある。
首都圏発で倉敷から伯備線を経由し、新見、米子、安来、松江、宍道、出雲市に停車する「サンライズ出雲」。新幹線を乗り継ぐよりも乗換がないぶん楽だし、さほど割高感もない。
寝台は全て個室で、ツインやシングルデラックスなど設備も多様とのことだし、快適なようだ。
東京-出雲市:22:00発-翌09:58着
ソロ料金:乗車券11,990円+寝台券9,720円=21,710円
だが…空路のほうが安上りだと思う。。
正確な料金および運行区間等の情報は下記へ
なぜ日本の神はヒトの姿をしているの?
神話の世界では、神も結婚したり、子をつくったりしている。相撲もとるし、踊ったりもする。
そういうことからも、日本人にとっての神は人間の姿で描かれていることが多い。神とは、八百万の神々のことであるが、それは天皇家が天照大御神を始祖とするところからも、やはり人間の姿と思うほうが妥当だと頭が条件反射的に判断していると思える…。
一方、世界の神たちはヒトの形をしていないことが多い。救世主(ヒト)が神の啓示を受けたり、天使などの神使が神のことづてを伝えに来ることはあっても、唯一神の神々はヒトとしてどころか、物体としても描かれていないことが多い。海外で神は人間らしさなど要らなくて、超越した存在であるべきなのだろう。
そもそもこの国譲りを神代の話ととらえるのか、それとも人間による国のトップ交代ととらえるのかによってモノの見方が変わってくる。日本の神がヒトと変わらぬ姿で描かれることが多いせいで、皆このあたりをごっちゃにして想像している気がして仕方がない。
なかには、出雲系はアマテラス系の人間に無理やり国を奪われたとして、大国主大神を悲劇の大王(おおきみ)と解釈する人もいる。「アマテラス系が騙して国を奪った後ろめたさから伊勢神宮よりも立派な社を建て、天照大御神の子孫(出雲大社代々の宮司・千家氏)が出雲の大神にお仕えしているのだ」と。
完璧に人間の所業であり、可哀想な大王を神に昇格させて祀っているというものだ。
そうとらえれば、よく言われる「出雲の神様と伊勢の神様は仲が悪い。だから、両方に参るのはよろしくない。縁結びも邪魔される。どちらかにせよ」説にもつながる。
仲が悪くて、いじわるするようなレベルなら、神は人間とどこが違うのか? 修行が足りないではないか。
神道には経典がない。始祖もいない。だから、「あれするな、これするな」もないし、「こうしろ」ともならない。
アニミズム(animism/原始宗教)なので、山、川、剣、鏡など、どんなものにも神が宿るとされる。とすれば、人間にも宿るということか。
「天野川さん、神はいないんですよ!」の声がどこからか聞こえる…。
確かに神という物体はないのかもしれない。清浄な依り代に宿る神は、こころという、これまたカタチのないものに宿る場合があるのだと私は解釈している。
神を思うこころにいるのであって、神がいないと思う人のこころにはいない。
「で、神はいるんですか?いないんですか?」と誰かに聞かれたら、「汚いところにはいないらしいから、めったに会えないと思うよ」と答えようか。 きっと間違っていない。